東京華僑総会の歴史
東京華僑総会の歴史/h3>
東京華僑総会
東京華僑総会の沿革
本会は1946年東京華僑聯合会として成立し、1951年東京華僑総会と改称した。
1949年10月1日中華人民共和国が成立するや本会はこれを熱烈に支持し、僑民大会の名において中華人民共和国政府を支持する
声明を発表すると共に祝賀と支持の心をこめた祝電を祖国政府に打電した。以来今日まで本会は一貫して社会主義祖国を擁護し、
華僑の愛国団結と中日友好を推進して来た。
また華僑の文化を発揚し、華僑の正当な権益と利益を守り、互助互済の福利事業を推進してきた。
1951年「中華民国駐日代表団」の干渉と分裂策動によって本会は分裂させられた。「代表団」は更に全日本各地の僑会、僑団、
僑校に対しても圧力をかけ干渉を行ったが1950年からの朝鮮戦争の緊張した情勢の中で本会は広範な愛国僑胞と固く団結して
「代表団」の圧力と干渉を断固排除し、華僑の民主と自主を守り通して来た。
この複雑且つ困難な闘いは日本各地の各界各層の僑胞に支持され、1972年中日国交正常化までの間に各地の僑会・僑団·僑校は
中華人民共和国支持の旗じるしをいっそう鮮明にした。
1952年日本国会における出入国管理令、外国人登録令の立法化に対し、華僑、在日朝鮮人の実情にそぐわない不適当な規定の
修正を日本国会や各関係方面に働きかける運動を広範な日本人民と在日朝鮮人と連帯して展開し、一定の成果をあげた。この運動
の成果はその後の在日華僑の正当な権益と利益を守る上で、又在留に関する諸問題の解決に大いに役立った。
1953年から1958年までの間に本会は祖国政府の暖かい思いやりと支持・援助、各地僑胞の支持と協力によって数千人の高級知識
分子を含む愛国華僑を社会主義建設に参加させるための帰国事業を成功裡に遂行した。同時に戦時中秋田花岡をはじめ日本各地に
強制連行され強制労働で殉難した烈士の慰霊と遺骨の収集、祖国への送還事業を日本各界各層の人民と共同して行った。
1954年10月新中国成立後最初の訪日代表団-中国紅十字会代表団(李德全団長、廖承志副団長)、 1955年晴海で開催された第一
回中華人民共和国商品展覧会、同年郭沫若中国科学院長を団長とする学術代表団、名優梅蘭芳を団長とする中国京劇代表団の訪日など1972年中日国交正常化までの間に訪日された代表団の歓迎、接待、安全保持、生活面での世話、通訳などの各方面での協力、援助活動は本会の主要な任務の一つであった。この間1964年L.T覚書による廖承志事務所東京弁事処、駐日記者事務所が東京で開設された時は本会から事務職員、運転手、料理人などを派遣、又開設したばかりの大使館、民航事務所でも職員、運転手を派遣して協力援助してきた。
以上のような複雑且つ困難な活動をやってこれたのは本会が日常的活動の中で僑胞と固く団結してきたからである。また本会は
成立間もなく東京の各地区に華僑自身の自治会を組織した。戦後の混乱した状態の下での華僑の営業活動及び税金対策では日本政府
と直接交渉し、各地区自治会と緊密に連繋して僑胞の正当な権益と利益を守ってきた。また、僑胞の法律問題、紛争解決、福利事業
をも精力的に行ってきた。さらに華僑の歴史的特殊性に鑑み、各省同郷会の組織化と活動を支特し、婦女会の組織活動と青年運動と
後継者問題については重点工作の一つとして継続的にとり組んできた。特に台湾の祖国復帰、祖国の統一事業は台湾同胞を含む華僑
の大事業であり、本会は1949年以来台湾省民との団結、あらゆる形での交流を行い台湾省民会と連繋して宣伝活動とあらゆる形での交流を推進してきた。
このようにして本会と各省同郷会、台湾省民会、婦女会、青年会との緊密な協力関係が確立されたのである。
日本各地僑会、僑団、僑校との連繋を密にし、各地での活動に常に関心をもち、直接、間接的な支持、協力を基礎に1960年代に
留日華僑代表会議が結成され、日本政府の外国人学校法案立法化と出入国管理法、外国人登録法の改正に関する不適当な諸規定に
対する反対運動を広範な日本人民、在日朝鮮人と連帯して展開し、これらの法案が国会で審議未了、廃案になったことは運動の大き
な成果であった。会館はこのように華僑の愛国団結運動の根拠地として重要な役割を果して来た。
東京華僑会館の歴史と建設経過
旧会館は1923年の東京大震災直後に建築された堅固な建物である。本会は1947年9月に購入したが戦後間もない焼け野原の
中で残った建物は賃借人の権利が大きく、すぐには入居する空室がなく、本会が入居したのは1951年であった。これまで
幾度か修理をしてきたが建築後すでに六十余年経っており、旧会館の耐用年数はすでに過ぎていたので隣接地の華東会館
(浙江、江蘇、福建三省の共同所有)と合同ビルを建設することが決定された。
1980年新会館建設委員会が結成され、直ちに僑胞からの募金活動と賃借人に事情を説明して明渡しを要請したが地価高騰の
あおりを受けて予想しない困難にぶつかり延々と交渉が続き、明渡しが完了して竹中工務店と建築契約を締結し地鎮祭が
とり行われたのは1987年11月6日であった。
新会館は土地216.7㎡、建物1,504.34㎡、三階部分は(有)華東会館の所有である。
新会館は広範な僑胞が力を出し合って、長い間の願望を実現させたものである。東京の中心にある新会館を、華僑運動の一つ
の拠点として、かつ僑胞の親睦と憩いの場として活用しつづけなければならない。さらにこれによって愛国団結と中日友好を
発展させることこそ会館建設の意義があり、華僑運動史における不滅の金字塔として後世に残したいと考えている。
〔 資料「東京華僑会館落成記念」(一九八九年六月発刊)より〕
東京華僑總会的沿革
本会於1946年成立,当時稱東京華僑聯合会,1951年改稱東京華僑總会。
1949年10月1日,中華人民共和国一成立,本会立即表示熱烈支持,以僑民大会的名義發表聲明,支持中華人民共和国政府,
併致電祖国政府表示祝賀和支持。從那時起直至今日,本会一貫擁護社会主義祖国,推進華僑的愛国団結和中日友好。
此外,本会還弘揚了中華文化,保護了華僑的正当權益和利益,推動了互助互濟的福利事業。
1951年,由於所謂的“中華民国駐日代表団”的干涉和煽動,本会遭到分裂,而且,“代表団”對日本全国各地的僑会、僑団和
僑校也施加圧力和進行了干涉。但是,在始於1950年的朝鮮戰爭的緊張形勢下,本会仍緊密団結廣大愛国僑胞,堅決頂住“代表団”
的圧力和干涉,維護了華僑的民主和自主。
這種複雜和困難的闘爭,贏得日本各地各階層僑胞的支持,直至1972年中日實現邦交正常化,日本各地的僑会、僑団、僑校
支持中華人民共和国的旗幟更加鮮明。
1952年,針對日本国会將出入国管理令和外国人登錄令立法化,本会聯合廣大日本人民和旅日朝僑,推動日本国会和各有關
方面修改不符合華僑和旅日朝僑利益的不恰当規定,取得了一定的成果。這一運動的成果在後來的維護旅日華僑的正当權益和利益
以及解決有關在日居留等問題方面發揮了很大作用。
1953年至1958年間,本会在祖国政府的親切關懷和支持、援助及各地僑胞的支持和協助下,成功地實現了使包括高級知識分子
在内的數千名愛国華僑回国參加社会主義建設的事業。同時与日本各界各階層人民一道共同完成了收集在戰爭中被抓到秋田花岡等
日本各地因強制勞働而遇難的烈士遺骨,祭奠併送還祖國的活動。
在1972年中日邦交正常化之前,歡迎、接待訪日的祖国代表団,併在安全和生活上給予關照,在翻譯等方面提供幫助等曾是
本会的主要任務之一。例如,1954年10月新中国成立後首次訪日的以李德全爲団長、廖承志爲副団長的中国紅十字会代表団、
1955年在晴海挙辦的第一届中華人民共和国商品展覧会和同年訪日的以中国科学院院長郭沫若爲団長的学術代表団、以名優梅蘭芳
爲団長的中國京劇代表団等都受到本会的協助。在此期間,1964年,根据廖-高崎備忘錄貿易協議建立的廖承志事務所東京辦事處
和駐日記者事務所開放時,本会都派遣了工作人員、司機和厨帥等。此外,中日邦交正常化後本会還向開設不久的大使館和民航
辦事處派遣了職員和司機,給予了幫助。
能夠進行上述複雜併困難的活動,原因在于本会在日常活動中緊密地団結了僑胞。本会成立不久,就援助各地區組織自治会,
圍繞戰後混乱狀態下的華僑營業活動及税金等問題,同日本政府交涉,密切聯系各地自治会維護了僑胞的正当權益和利益。而且,
在解決僑胞的法律問題和糾紛,發展福利事業等方面也作出了努力。
進而,鑒于華僑歷史的特殊性,本会支持各省同鄉会的組織化和活動,把開展婦女会的組織活動和青年運動及接班人問題作爲
一項重點工作,持續不斷地給予了援助。尤其是,祖国的統一事業是包括台灣同胞在内的全體中国人民的偉大事業,本会自1949年
以來,団結台灣省人民,以各種方式同他們交流,与台灣省民会聯系,推動了宣傳活動和各種交流。
本会就是這樣,確立了同各省同鄉会、台灣省民会、婦女会、青年会的緊密協作關系。
密切同各地僑会、僑団、僑校的聯系,經常關心各地的活動,開展相互間直接或間接的支援和協助爲基礎,本会与各地僑会、
僑団、僑校于60年代組成旅日華僑代表会議,併与廣大日本人民和旅日朝僑共同展開反對日本政府在有關外国人学校的立法和修改
出入国管理法、外国人登錄法等法案中不合理規定的運動。這些法案在国会未審議完,成爲廢案,這是運動的一大成果。
開展這些運動的根據地,就是這個東京華僑会館。
東京華僑会館的歷史和建設經過
旧会館是1923年東京大地震後不久建成的一棟堅固的建築物。本会於1947年9月購入,但由於在戦後不久於戦火中殘留下的建築物
其租賃人的権利很大,沒有能够立即搬入的空房間,本会於1951年搬入。到現在爲止,該建築物雖經數次修理,但自建成後已經歷
60余年,已超過耐用年限,因此決定与昆連的華東会館(爲浙江、江蘇、福建三省僑胞所共有) 一起合併建成一棟大樓。
1980年新会館建設委員会組成,立即開展募捐活動和向租賃人說明情況,請他們搬出。
由於受到地價暴漲的影響,遇到了預想不到的困難,經過不斷交涉,住戸搬了家,才同竹中工務店簽署了建築合同,於1987年
11月6日擧行了奠基儀式。
新会館占地面積216.7㎡,建築面積1,504.34㎡。三層部分爲華東会館所有。
新会館是在廣大僑胞們的共同願望下,經過長時間的共同努力才得以建成的。位於東京中心的新会館是華僑活動的一個拠点,
也是僑胞們開展親睦活動和休息的場所。此外促進和發展愛國団結和中日友好事業是建設会館的重要意義之一,它的建成將在華僑
運動史上爲後代們留下一座不朽的金字塔。